体験記その1: 坐る
「坐る」 T.M.さん
毎週⽇曜⽇の朝、BS ⽇テレで放映される⻑寿番組(再放送かもしれない)に「イタリアの⼩さな村の物語」というのがある。 毎回観られるわけではないが、実は最近、ここで流れるCMが深く印象に残った。ある⼤⼿ハウスメーカーの作品だが、設定はこうだ。
登場⼈物は⼤学で教鞭をとっている⽗と、その⼤学の⽗の講義に⼀⽇体験⼊学(?)した息⼦との⼆⼈。お⽗さんの働く現場を⼀⽇体験する、といったようなものかもしれない。 この息⼦はどう⾒ても⼩学校の中⾼学年⽣ほどだが、⼆⼈の会話ではお互いに丁寧な⽇ 本語が使われている。「⼤⼈」と「⼦供」のバリアがない、そこにある⼼地よいゆらぎに私 は魅了された。
その⽇本語の美しさもさることながら、⼆⼈の会話にたまらなく惹かれてしまったのだ。講義後にお⽗さんの研究室で⼆⼈がひと息ついている場⾯での会話はおおよそこのようなものだったと思う。
息⼦ 「昨夜は、よく眠れませんでした」
⽗・ 「なぜですか?」
息⼦ 「⺟は、どんな⼈でしたか?」
⽗・ 「厳しくて、優しい⼈でした」
息⼦ 「⽭盾していますね」
⽗・ 「⼈間は⽭盾しているものです。僕なんか⽭盾だらけです」
息⼦ 「トモミさん(恐らく、⽗の名前)もですか?それはおかしいですね。⽭盾だらけの⼈が教えていいのですか?」
⽗・ 「だから、(学⽣たちは)みんなホッとするんじゃないですか?」
息⼦ 「だったら、僕も先⽣になれるかもしれませんね」
⽗・ 「ほら、⼩さな希望が⽣まれましたよ」
会話を⼀字⼀旬正確に覚えているわけではないのだが、このような会話だった。
印象深いСМが伝えようとしたこととは離れるが、ここに出てきた「⽭盾」という⾔葉が気になった。 その意味を辞書で調べてみると、「⼆つの物事がくいちがっていて、つじつまが合わないこと」(『⼤辞泉』)と書かれてある。
普通、世の中では、⼆つの物事がくいちがっていて、つじつまが合わないような状態を良しとはしないのだろう。確かに落ち着かないし、不都合なことも起こる。 このCMでは、⼩学⽣でも、⽭盾してる状態が決して良い状態だとは思っていないというように使われている。まだ⼦供で⼩学⽣の息⼦でも思わず、「それは、おかしいですね」、と⽗に問い返している。
⼈は、⼆つのものがあたかもあるかのように捉え、理解しようとする。このようにしてなんとか⽣き⽅に折り合いをつけようとしているのかもしれない。
ところで、なぜ⼆つの物事が⾷い違っている、あるいはつじつまが合わないと思うと、それをおかしい、あるいは良い状態ではないと感じるのだろうか。
⽬の前の⼆つの物事が⽭盾している場合はなんとかそれを克服しようと出来るが、「⼼」が⽭盾しているとなると少し厄介である。 「⼈とはそういうものだ」、と納得するのも⼀つの⽣き⽅かもしれないが、「本来⼀つもの」という事実に安寧、安⼼することを意識、無意識に係わらず嗅ぎ取っているからこそ(⼈によって強弱はあるものの)、⼈は居⼼地の悪さを覚えるのではないだろうか。
「⼀つもの」を突き詰め、突き詰めていくと、そこにはガンとして⼀⾒動きようのない、変わりようのないものに思われる「我(われ)」と遭遇する。
例えば、電線にとまっている⿃を⾒るとしよう。これは、「私(我)」が「⿃」を「⾒ている」となる。多くの場合、これが事実と相違することに気が付かない、あるいはそういうものだと錯覚して⼈⽣を展開させていく。錯覚して展開したところに⼈としての苦しみが⽣まれ出てくる。
常に「我(われ)」があってそして相⼿(⼈でも、⽣き物でも、単なる物でも)がある。事実はそうでないのに、⼆つがあたかも存在しているかのような状態。ここで⽣じる違和感が結局、苦しみあるいは不安となって居⼼地の悪い状態となる。
先にも書いたが、⼈によってその状態の強弱は様々。それほど違和感を感じない、あるいは感じないようにする術を持っている⼈もいるだろう。私の場合、⾔い知れぬ違和感というものがいつも⼼の根底にあった。
⼆⼗五歳の時、坐禅を始めようと決⼼した。当初は、「こうした違和感のある不安定な⼼をなんとかしたい」が動機だったかもしれない。だが、決⼼したはいいが、当初勇んで禅堂で修⾏を始めると、「⾔うは易く⾏うは難し」で⼼が決第に萎えてきた。 やはり修⾏は厳しくないと⾔えばうそになるし、通常の⽣活とはかけ離れた⽣活を禅堂ではすることになる。「戦後⽣まれの⾼度経済成⻑真っただ中で⻘春時代を謳歌していた⾃分には出来ないかもしれない」と思い始めていた。
ちょうどその時、まさにその私の⼼の動きを察知されたかのような問答が、独参室で最初の師である耕雲⽼師との間で⾏われた。
耕雲⽼師・
「ところで、橋本さん(旧姓)は今どこにいますか?」
(⼀瞬、⽿を疑った。なぜなら、独参室で耕雲⽼師の⽬の前にいるのは私しかいないのだから)
私 (慌てて)「私はここにいます」(と、軽く膝を叩く)
耕雲⽼師・ 「分かります。私には、あなたの⼿、⾜、そして顔、⾒えますし、分かります。 けれど、それは全てyour legs,your hands, your face ですね。Your somethingは分かりました。では、あなた⾃⾝(=Yourself)をここに出してください」
今でもこの時の開答は鮮明に覚えている。そして⾦縛りにあったような感覚に襲われたことも。何かを⾔いたいのに⾔ったところでどうにもならないもどかしさ。
と、同時に「これだ!!」
それからは、「⾒性までの道のりは銀⼭鉄壁」(銀⼭鉄壁を経ないでスーと⾒性される⼈もいるが)と⾔われようとも、「これ」を発⾒するまで⽌めるわけにはいかない。 まさに銀⼭鉄壁で修⾏を統け、⾒性し、それからは「これでいい」ということがなく、今⽇に⾄っている。
凌雲⽼師も仰っているが、この道に終わりはない。ただ、⾒性して⾔えることは、たとえその⼈が⾒性していようが、していまいが、真剣に坐っているその<一坐>がまさに「ホトケ(仏)」そのものだということ。
誤って受け⽌められると困るのだが、だから⾒性しなくていい、ということにはならない。なぜなら、このことが明々瞭々、明々⽩々にハッキリするのは⾒性してこそなのだから。
最近、マインドフルネスという⾔葉をよく⽿にするようになった。⽶国ではハートフルネスという⾔葉もあると聞いた。真の禅には、あらゆる理由、動機をもって始めたであろうマインドフルネスやハートフルネスをも包含する無限の深さと広⼤さがあり、真に⾃由⾃在だ。そして、真の禅はこれらの核となり得る。
いや、とやかく⾔う必要はない。
さぁ、皆さん、先ずは坐ってみませんか?