体験記その3: 禅といまの私

「禅といまの私」S.K.さん

⼆〇⼀九年⼗⼆⽉⼋⽇、謝拝。
これにて完結。
ありがとうございました。

思い返せば、永い間探しものをしてきたのだなぁ・・・と思います。それが何だったのかやっとはっきりいたしました。多分坐禅を知らなかったら⼀⽣グルグルあれでもない、これでもないと、さまよっていたと思い、ゾッとします。迷いの道は⼆⼗代にすでに始まりました。世界のベストセラー『聖書』の勉強に夢中になり、市内を伝道して歩く程になりましたが、虚しくて、離れました。

⾼校⽣のころがら「インドへ⾏かなくては......」と、そんな気持ちが頭にしばしば浮かび、それがやっと実現できたのが五⼗代でした。インドの聖者といわれる⼈の話に魅せられマントラを覚え、唱え、ヤントラ[ヒンドウー教の神々ないしは宇宙の⼒を図であらわしたもの]を描き、まじめにひたすら修⾏しました。このことは次の坐禅の道への通過点でした。私にとっては必要なことだったのです。インドの不思議なツアーの仲間に代々⽊上原の松浦さんがおられ、何故か私に坐禅を勧めてくださったのです。しかし、インドの聖者の講話も⼈⽣にとってまことに⼤切な内容だったし、有名な『ガヤトリマントラ』は「どうぞ私の中の光を輝かせてください・・・」というもので、⾃分の無意識、⾃⼰への気づきを⽰唆するもので、坐禅のことは後回しにしていました。しかし、松浦さんはあきらめず真剣に、しかも親切に誘ってくださって、その気持ちに私の⼼もほどけ、やっと鎌倉に⾜が向いたのです。

忘れることのない初⽇、⼤奥様が「むずかしいですよ!頑張ってください!」と。提唱では、猫を斬る!いきなりショックでしたが、⼼の奥ではワクワクしていた記憶があります。なんという世界?それ以後はすっぽり、「坐禅イコール命イコール無」という次第です。

今では地元岡崎に「無々庵」を設けて皆さんと坐っています。先⽇も坐禅会に来られた⽅が、「坐禅は何のためにするのでしょうか?」と質問されました。

「⽬的なんて無いですね。それは、今想像する最⾼の⽬的をもってしても⽐べものにならない程すごーいことが起きちゃうのでね・・・・・・。」

ウン、ウン、これがいまの私の答えです。

坐らなきゃ、坐らなきゃ。