「禅」とは?

「禅」とは? 佐藤 研

1. 「禅」とは?

「禅」とは、「禅那(ぜんな)」という⾔葉の省略形です。禅那とは、古代サンスクリット語のdhyana(ジャーナ)という⾔葉を漢字を使って⾳写したもので、もともとは、「⾃分の中に深く没⼊する」という意味です。それは、主として、⾜を組んで「坐る」という仕⽅で⾏われました。つまり、「坐・禅」です。というのも、この仕⽅が⼼⾝にいちばん安定感を与えるからです。お釈迦様も、その探求の最後にはこの⽅法で悟りに⾄りました。ですから、「禅」あるいは「坐禅」とは、仏教よりずっと古く、古代インドの時代から存在した修⾏法でした。それは、お釈迦様より後の時代では、いわゆる「仏教」、それも主として「禅宗」によって担われてきたのですが、元来は、⼈間なら誰にでもできる、「本当の⾃分」を⾒出すための道だったのです。その意味では、「禅」や「坐禅」は、ふつうに⾔う意味での「宗教」を超え出たものと⾔えるでしょう。

2. なぜ坐禅をするのか?

ところで、なぜ⼈は坐禅をしようと思うのでしょうか。最も消極的な場合は、「友⼈に禅堂に来いと⾔われたから来てみました」というケースがあります。あるいは、何となくおもしろそうだから、という⼈もいなくはありません。もう少し⾃分で考えて、坐禅をすると健康に良さそうだから、とか、⾃分は冷え性を治したいからとか、姿勢をよくしたいから、とかいう⼈もいます。あるいは、仏教のことを少しは学びたいので、という⼈もいるでしょう。もっと深刻に、何とか⾃分の嫌な性格を変えたいとか、⼈間関係でストレスがたまってどうしようもないから、というのもあります。さらには、理由は分からないけれど、芥川⿓之介のように、「漠とした不安」がたまらないので、という場合もあります。あるいははっきりと、死ぬのがこわいので何とかしたい、という⼈もいます。江⼾時代の有名な⽩隠(はくいん)和尚さん(1686-1768)などはそうでした。さらには、親しい⼈が死んでしまった、どこへ⾏ってしまったのか。そのことを考えると、いてもたってもいられなくなり、とうとう禅にたどり着いた、という⼈もいます。禅の元来の関⼼から⾔えば、後半に述べたような、⾃分に関しての深い苦しみや⽣死問題の悩みなどがその中核をなしてきました。 しかし、私たち三宝禅では、これらの動機のどれもそのままで認め、差をつけたりはしません。そもそも、坐禅をやってみようと思うだけで、七⼗数億の⼈類の中では⼤変まれなことだからです。たとえ軽い気持ちで坐禅をやってみる気になったとしても、その奥には深い動機が隠されていることもあります。どのようなきっかけにせよ、坐禅を試してみる気になるだけでも、とても貴重なことなのです。

3. どのように坐禅をするのか?

坐禅の仕⽅は、いろいろな本やサイトで説明されていますが、三宝禅の中⼼禅堂である鎌倉の「三雲禅堂」では、本当に正しい坐禅の仕⽅を学んで欲しいために、担当者が⼀対⼀で導⼊指導を⾏っています。これは、当禅堂に新しく来られた⽅が全員⼀度は参加する⼝頭指導という意味で、「総参(そうさん)の話」と呼んでいます。それぞれの坐禅会で通常2レッスンほどお話しし、6レッスンになると完結します。その間、坐禅の仕⽅だけではなく、適正な坐禅のための様々な条件や基本的なマナー、そして禅の⼤まかなタイプや考え⽅などを学びます。
6回ということは、全部終わるまでには何回かの坐禅会、時間的には1ヶ⽉を優に超える期間が必要となります。その間に、「総参の話」を聞くだけではなく、⾃分も禅堂の⼈々といっしょに坐り、また⽼師の提唱を聞いて、この禅堂で本当に修⾏したいかどうか⾃問⾃答していただく期間です。そして総てのレッスンが終わって、やはりここで修⾏しようと思われる⽅には、⽼師に「相⾒」(しょうけん──互いに相まみえて、師弟の約束をかわす、の意)し、その指導のもと、その⼈に合った修⾏の⽅法を決めます。もちろん、レッスンが終わった時点でそれ以上は⽌めるということも可能で、それに付随するいかなる不利益もありません。禅でよく⾔われるように、「来るを拒まず、去るを追わず」の⾃由の原則が徹底しています。また、宗教的背景を問われることも、それが後の修⾏のあり⽅に影響を及ぼすこともまったくありません。

4. 坐禅の果実──坐禅をすると、どうなるのか──

では、坐禅というものを、指導者について正しくやっていくとどうなるのでしょうか。あるいは、坐禅をすると、そこにどういう「果実」が⽣まれるのでしょうか。 坐禅を少しでもやり続けると、⾎流がよくなるとか、⼼が落ち着くとか、健康上の効⽤がずいぶんあることはよく聞くことです。しかし、その後さらに続けるとどうなるのでしょう。おおまかに、三つの「果実」が⽣れる、と⾔えます。

  • a.定⼒(じょうりき)がつく。
  • b.⾃分の本質が体験される。
  • c.⾃分の本質が体現される。

a.最初の「定⼒がつく」とは何でしょうか。「定(じょう)」とは、坐禅をしているときの深い意識の状態です。

では、坐禅というものを、指導者について正しくやっていくとどうなるのでしょうか。あるいは、坐禅をすると、そこにどういう「果実」が⽣まれるのでしょうか。 坐禅を少しでもやり続けると、⾎流がよくなるとか、⼼が落ち着くとか、健康上の効⽤がずいぶんあることはよく聞くことです。しかし、その後さらに続けるとどうなるのでしょう。おおまかに、三つの「果実」が⽣れる、と⾔えます。

b.そこで、坐禅本来の果実として、次の「⾃分の本質が体験される」ということをあげなければなりません。

もっとも、⾃分の「本質」は実はいつも現れているのですが、ここでは、それが体験として鮮明に分かるようになる、ということです。頭で分かるとか思想的に思い描ける、というのではなく、なまなましい体験として現れる、ということです。これは、⼀⽣懸命坐禅を続け、ある線をこえて⾃分の奥に没⼊して⾏くと、何かの拍⼦に突然⽣じるものです。その時の喜びは⼤変なものです。多くの⼈が、⼈⽣であれほど嬉しかったときはない、と⾔うほどです。
では、この「本質」とはいったい何でしょう。⾔葉ではなかなか説明できるものではないのですが、あえて⾔えば、⾃分が<空っぽ>としか表現できないものである、そして、同時に⼀切のモノや事象がまたそうであることが体験的に分かるのです。すると、「ひとつ」という世界が現れるのです。ふつう私たちは、ここに⾃分がいて、向こうに相⼿がいる、モノがある、と思っています。そして、どのようにしてその相⼿とわたり合うか、モノをどう扱うか、と考えています。⽂法で⾔うと、「1⼈称」があって、それに対するものとして「2⼈称」と「3⼈称」があります。しかし、私たちの「本質」が現れると、この基本的な⽂法が、実はきわめて表⾯的な習慣の産物で、⼀種の幻影でしかなかったとわかるのです。むしろ、いわば「0⼈称」とでも⾔えるような、奥底にあった本当の世界がでてきて、⾃分と他との壁が消えてしまうのです。同時に、「⽣」と「死」の壁も消えてしまいます。そこから、すべて「ひとつ」という世界だと分かり、また、それが「本当の⾃分」だと腑に落ちるのです。そして、不思議としか⾔いようがないのですが、これはとてつもなく⼤きな平安になり、喜びとなります。
もっとも、この体験にまで⾄るには、正しい坐禅の指導を受けることがとても⼤事です。そうでなければ、途中でどこか別のところに曲がっていってしまい、⾃分でそれが分からないままに終わることになりかねないからです。

また、この体験は、⼀回で終わることはむしろまれです。⼤⽔でいちど堤防が破れ始めればさらに⼤きな決壊が続くように、この体験はその後、折に触れて新しくされ、深まっていくものです。このことがまた、坐禅の喜びをいつも新鮮にしていきます。

c.第三の「果実」とは、坐禅をすることによって、この⾃分の「本質」が⾝につき、⼈格化し、はては社会化までする、ということです。これには、第⼆の「本質の体験」があればそれにこしたことはありませんが、それがまだなくとも、坐禅をすること⾃体が、この「本質」の体現に向けて、すでに歩み出していることなのです。つまり、坐禅というのは、「ひとつ」の世界を、どのようにでもあれ、いつの間にか活性化していくものです。ここに、坐禅による「平和」の⽣きた原理があります。

もっとも、これが本当に実現するには多⼤な時間がかかることも事実です。「⼀⽣や⼆⽣ではとうてい ⾜りない」とすら⾔われます。「お釈迦様でも修⾏中」とも⾔われるほどです。遠⼤なことですが、しか し坐禅によって、この⼤きな実が結びうるのです。

坐禅の⼒は、13世紀の道元禅師が⾔うように、「たとえすべての仏さまたちが知恵をしぼって探求しても、じつは計り知ることができない」──それほど深く、すばらしいものです。それは、⼈間としての⾝体があれば、誰でもできることです。お⾦も学問も特別な⾝体能⼒もまったく要りません。坐れば、もうそれですべてなのです。

あなたもいっしょに坐ってみませんか。