⼈は死なない
三宝禅 管長 ⼭⽥凌雲
⼈は死なない
釈尊の発⾒を端的に表現すると「⼈は死なない」という発⾒である、といえる。いかなる歳⽉の変遷にも、いかなる環境の変化にも我々の本質は微動だにしない。当然ながら「死なない」のである。
「⼈は死なない」という発⾒は⼈類史上最⼤、最⾼の発⾒であると私は思う。これほど価値のある発⾒がほかにあろうか。最⼤最⾼の世界遺産といっても⾔い⾜りない。しかし残念ながらこの⼤発⾒を地球上に住む⼤多数の⼈々が知らない。新年が訪れるたびに、また⼀つ歳をとった、また⼀歩死に近づいた、と⼈は考える。これは全くの誤りなのだ。歳をとった者が何処にいるのか、何処に死に⼀歩近づいたものがいるのか。釈尊はこの問いを徹底的に追求した。そして「⾃⼰」というものは影も形も⾊も臭いも重さも、何もないことに気がついたのだ。「⾃⼰」というものは⼈間が頭のなかで勝⼿に作り上げたイメージに過ぎなかった、という事に気が付いたのだ。「⾃⼰」とか「⼈」というものは概念に過ぎない、ということは「⼈の死」も頭の体操で作り上げた概念に過ぎないということだ。「死ぬ」というが「死ぬ」者が存在しないのだ。はっきり申し上げると「死」というものはそもそも存在しないのだ。
さらに申し上げるとじつは「死」について述べたことはそのまますべて「⽣」にあてはまるのだ。「死」は存在しないが「⽣」は存在するというわけにはいかない。上の⽂章で「死」という字を「⽣」に置き換えてみていただきたい。「釈尊の発⾒を端的に表現すると「⼈は⽣まれない」という発⾒である」ということになる。
「⽣死」は概念であって、「⽣死」には実体がない。にわかには信じがたいと思われる⽅が多いかもしれないが、実は「⽣死」というものは存在しないのだ。⽣死の本質を述べると、嬉しいが⽣であれば悲しいが死である。苦しいが⽣であれば楽しいが死である。歩くが⽣であれば⾛るが死である。⾬が降るが⽣であれば天気になるが死である。⼭が⽣であれば河が死である、ということになる。世界政治経済の激動は勿論のこと、全宇宙の活動の全ては実は「⽣死」そのものであり微動だにしない我々の本質が展開する姿なのだ。
「⼈は死なない」。釈尊のこの尊い発⾒を⼀⼈でも多くの⼈に伝えることが三宝教団の使命である。坐禅を通してのみこの発⾒は共有出来る。この使命の遂⾏のためにこの⼀年共に⼒を尽くそうではないか。
三宝禅機関誌 暁鐘340号(2010 1・2⽉号) 巻頭⾔より掲載