デカルトは正しいか
三宝禅 管長 ⼭⽥凌雲
デカルトは正しいか
「⽅法序説」で詳述されるデカルトの思考⽅法論を端的に述べれば「少しでも疑わしければ、それを完全に排除する」という思考プロセスであるといえる。通常正しいと認識されている事象も若⼲でも疑う余地があれば完全に排除していく。このプロセスでは1+1=2というような⾃明の理に⾒える認識すらも排除される。そしてどうしても排除できないものとして最後に残ったものが「我思う、ゆえに我あり」という認識なのだ、とデカルトは主張する。これは真実か、排除すべきか、と確かに⾃分は考えている、考えている⾃分がいる、この事実だけはどうしても排除できない、という主張である。
果たしてデカルトは正しいのか。
デカルトは間違っている。私はそう云わざるをえない。⼈類の⽣んだ最⾼の知性が徹底的に考え抜き万⼈が認めるその結果を否定するだけの知性と思考⼒をお前は持ち合わせているのか、と問われるかもしれない。当然ながらデカルトの知性も思考⼒も私は持ち合わせていない。しかしこれは知性や思考⼒の問題ではないのだ。体験的に発⾒された事実の世界の話なのだ。
いくつかの点でデカルトは間違っている。まず「我思う、ゆえに我あり」という命題⾃体、既に「トートロジイ(Tautology)」的⽭盾を孕む。「我」の存在を認識するプロセスを⽰す筈の命題が既に初めから「我思う」と「我」の存在を前提としている、という⽭盾である。
この⽭盾はやや⾔葉尻を捉えた指摘であり、⼀⾒本質論ではないようにも⾒える。しかし、じつは本質と密接に結びついている。
「これは正しいのか、これは間違っているのか」と思考する、このことは否定できない。「思う」、この事実は排除できない。ここまではその通りなのだ。ここまではデカルトは正しい。しかしデカルトは次のステップで「ゆえに我あり」と「我」の存在を認識する。ここにデカルトの陥った誤謬がある。⼀体どこからデカルトは「我」などというものを持ち込んできたのか。デカルトは⼀体どこで「我」などというものを⾒つけたのか。デカルトが「我思う」と切り出したときに既に彼はこの誤謬に陥っていたと云わざるをえない。
「思う」と云う事実は否定できない。しかし「思う」という事実以外何も存在していないのだ。「我」などというものはどこをどう捜しても存在しないのだ。いかなる知性といえども体験を通さないかぎりこの世界は発⾒できない。
「我思う、ゆえに我あり」は「思う、されど我なし」と修正されなければならない。
趙州和尚が釈尊の発⾒した世界とはどんなものか(如何なるか是れ祖師⻄来意)と聞かれて、「庭前の柏樹⼦」と答えた。無⾨関に出てくる有名な公案です。「思う、されど我なし」の世界を趙州は呈しておられる。
庭の柏の⽊、あの⽊以外に乾坤⼤地何⼀つ存在していない、ましてやそれをみている「趙州」などどこをどう捜しても⾒当たらない、という世界です。
「庭前の柏樹⼦、されど我なし」
三宝禅機関誌 暁鐘341号(2010 3・4⽉号) 巻頭⾔より掲載